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日本のあちこちを旅しています。

ホテルニューオータニの日本庭園(3)大滝〜井伊家屋敷跡

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ホテルニューオータニの日本庭園の散策を続けます。

 

大滝
高さ6mの大滝は、約3トン〜5トンの組石82個と玉石5トン、小滝は、2トン〜5トンの石を58個と玉石3トン、 池周り1トン〜4トンの石78個と100キログラム石2トンを使用した組石
近くで見ると迫力ありますよ。
紀尾井窯
陶芸用の窯で、お正月やゴールデンウィークには、宿泊客を対象に陶芸教室が開かれているそうです。
そして、この時見たかったものは・・・
この碑と旧井伊家中屋敷のイヌマキとカヤの木でした(^^ゞ
旧井伊家屋敷跡

イヌマキとカヤ

「イヌマキ」と「カヤ」の2本は、ともに天明年間(1780年代)からこの地に生育していたものと考えられ、江戸時代から伝わる貴重な樹木として、千代田区の天然記念物に指定されています。

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ホテルニューオータニの日本庭園(1)

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今年の春、ホテルニューオータニの日本庭園を見学してきました。

 

 

下から上がっても行けるのですが、結構な高低差があるので、エレベーターで上まで行き、下がりながらまわりました。

 

 

ホテルニューオータニ日本庭園には、江戸時代初期、加藤清正の下屋敷がありました。 そして二代・忠広の時に加藤家が改易になったのを機に、この屋敷は井伊家へと引き継がれ、幕末まで中屋敷として使用されました。

 

 

紀尾井町の由来は、江戸時代この地に屋敷を構えていた紀伊徳川家、尾張徳川家、そして井伊家の頭文字をとって、後に名付けられたものです。
この土地はその後、伏見宮邸宅となりました。 第二次大戦後、伏見宮家がここを手放すにあたり、外国人の手に渡ろうとしたのを、ホテルニューオータニ創業者である故大谷米太郎が、由緒ある土地を外国に売り渡すのは惜しいと買い取って自邸とし、荒れ果てた庭を大谷米太郎自ら陣頭指揮して改修。
1964年、大谷米太郎は政府の依頼に応じて、東京オリンピックのため、この地にホテルニューオータニを建設し、日本庭園はホテルニューオータニの一部となったそうです。

 

 

 

 

清泉池

 

池の鯉は、緋鯉、真鯉合わせて約350匹。 サギや鴨も渡ってくるそうです。

 

 

太鼓橋

 

 

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今川氏の菩提寺・観泉寺

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東京都杉並区の観泉寺は、今川氏の菩提寺であり、枝垂桜、紅葉などの名所としても知られています。
中野にある成願寺の住職・鉄叟雄鷟大和尚が開山となり、慶長2年(1597)観音寺として創建したといいます。
正保2年(1645年)今川直房が当地一帯の領主となり、当寺を今川家の菩提寺として観泉寺と改めました。
寛文2年(1662年)、直房は市谷田町の万昌院が牛込に移転するのに際し、万昌院にあった祖父・今川氏真と母(吉良義安の娘)の墓を観泉寺に移転し、今川氏真を観泉寺の開基としました。
境内にある今川氏累代の墓は、東京都の旧跡に指定されています。
今川氏は明治時代に断絶しましたが、現在の地名「今川」の由来となっています。
境内の日本庭園にサギの姿がありました。

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北条氏政・氏照の墓
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小田原駅から歩いて数分のところにある北条氏政・氏照の墓所です。









こういう案内があるとわかりやすいですね。







ここから一番近いお店に行ってみたのですが・・・

どこに置いてあるのかわかりませんでした〜(;O;)

帰りの時間も迫ってきたため、幸せの鈴には巡り会えず〜orz

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浜名湖ぶらり(3)大福寺
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続いて三ヶ日の大福寺


山門












当寺は、清和天皇の貞観17年(875)に名僧教待上人が鳳来山(扇山)に幡教寺を開創した。
200年を経て承元三年(1209)大中臣朝臣時定卿が所領250町歩を寄附し現在地に移し、土御門天皇から勅額を下賜されて大福寺と改称した。
その頃当時は塔頭30建造物20を有する大伽藍であった。(案内板より)







境内庭園

海抜40mの境内からは、景勝瀬戸が眺められ9月から4月まで咲く半歳桜や銀杏の大樹がある。 900坪の庭園は室町時代の築庭で浄土苑と称し元禄時代は茶祖山田宗徧(そうへん)が愛好した名園で、池は福助池という。(案内板より)



広い境内を奥に進むと、数々のお堂があります。










 
また、当寺は大福寺納豆でも有名です。

浜名納豆

大福寺伝製の浜名納豆は明(中国)の僧から伝来されたもので、日本の納豆の元祖である。足利7代将軍義勝・今川義元・豊臣秀吉・徳川家康以下歴代の将軍に献上し、御朱印の外に納豆除地を下付せられた。豊臣時代は唐納豆と言ったが、徳川中期から浜名納豆と言っている。(案内板より)



今年はもう売り切れでした(^_^;)


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歴史の散歩道 : comments(5) : trackbacks(0) : しずか
七里の渡し(宮の渡し公園)
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地下鉄名城線「伝馬町」から熱田神宮を左手に歩くこと10分

 



江戸時代、旧東海道桑名までの海路「七里の渡し」の船着き場として栄えたところです。



現在は、宮の渡し公園として整備され、「時の鐘」、「常夜燈」が再現されています。











向かい側にある丹羽家



住宅脇本陣格の旅籠であったそうです。





風情のある公園まで、夕暮れ時に気持ち良い散歩ができました。

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名古屋めぐり(5)清洲&清洲古城跡公園
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信長ゆかりの地・清洲を歩いてみました。 



 名鉄新清洲駅から五条川に架かる五条橋に出ると、江の幟が立っています。



 
 
清洲公園 清洲城天守閣の対岸に位置し、信長の像があります。 

 

 

若き日のの信長でしょうか。凛々しお姿ですね 



この銅像がある付近に本丸の中心部は、線路を挟んで北側に天守閣があったと推測されているそうです。 

 

清洲古城跡公園 清洲越の後、現在まで清洲城跡地として保存されています。 





 
 



 ここから赤い橋とお城が見えます。

 

お土産処を兼ねた休憩所もありますよ!
 
 



中には江のポスターが!


 
次は清洲城へ向かいます。

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歴史の散歩道 : comments(2) : - : しずか
井伊家の史跡めぐり(5)井伊谷城跡
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井伊谷宮から井伊谷城跡へ。

井伊城は井伊氏の居城だった場所で、井伊谷宮近くの城山の上にあります。

城山公園から坂道を7分ほど上るのですが、この坂道が結構キツイ(汗)




 
城山の頂上付近には御所丸跡や井の宮石稜が残っています。









南北朝時代、戦時には、三嶽城(井伊谷城から北東2.5kmにそびえる三岳山に築かれた城)を本城とする井伊氏・宗良親王は、北朝方と戦っていたといわれます。

井伊城はこの城山の南麓にあり、南麓には本丸・二の丸・三の丸に分かれ、井伊家の居城であったとされている。延元元年(1337)遠江介井伊道政が後醍醐天皇の皇子宗良親王をお迎えしてより、元中2年(1385)8月10日宗良親王この地で薨去し給うまで約50年、親王は京都と鎌倉の中間であるこの井伊城を本拠として、駿河、甲斐、信濃、越中、越後、上野の国々を転戦された。

平時にこの城山の御所の丸に居られ  

 夕暮れは湊もそことしらすげの 入海かけてかすむ松原 

 はるばると朝みつしおの港船 こぎ出るかたは猶かすみつつ 

の御歌が残されている。(説明版より)

城山公園として整備されているこの城跡には、テーブルやベンチも設置されていて、引佐周辺や浜松アクトタワーの展望を楽しむこともできます。





また、城山全体に桜の木が植えられているので、桜の季節には花見客で賑わうそうです。 FC2ブロブログランキング参加中!
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歴史の散歩道 : comments(4) : - : しずか
井伊家の史跡めぐり(4)井伊谷宮 宗良親王の墓
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 龍潭寺に隣接する井伊谷宮は、1872年(明治5年)井伊家によって建てられた神社で、南北朝の動乱期に、井伊家のもとに身を寄せ、北朝方と戦った後醍醐天皇の皇子の宗良親王を祀ってあります。本殿の背後に宗良親王の墓と伝えられる塚がありますが、宗良親王の晩年は不明な点が多く、終焉の地については諸説あります。

墓所は、立入禁止になっていて見ることはできません。



宗良親王に従った信濃国の知久監物源頼人が奉納した宝筐院塔があるそうです。



龍潭寺から、この墓地を通り過ぎて、井伊谷宮に通り抜けることができます。








慈母観音菩石





母親が子どもを抱いている姿に見えます。

宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、1311年(応長元年) - 1385年9月14日(元中2年/至徳2年8月10日)? )は、南北朝時代・室町時代の皇族で後醍醐天皇の皇子で、信濃の宮や大草の宮・幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。母は二条為子。
歌道の家であった二条家出身の母から生まれたことにより、幼い頃から和歌に親しんでいた。妙法院に入り1325年(正中2年)妙法院門跡を継承。続いて1330年(元徳2年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。
父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗り、大和国吉野(奈良県)の南朝方として活躍をするようになる。1338年(暦応元年/延元3年)には、義良親王とともに北畠親房に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(福島県伊達郡霊山町)へ渡ろうとするが、座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族井伊道政のもとに身を寄せる。
1340年(暦応3年、興国元年)に足利方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊谷城が落城した後、越後国(新潟県)の寺泊(現、新潟県長岡市)や、越中国(富山県の放生津(現、富山県射水市)などに滞在した後、1344年(興国5年/康永3年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現、長野県大鹿村)に入った。宗良はこの地を文中二年(1373年)までの約三十年間にわたり拠点とし、「信濃宮」と呼ばれるようになる。その間に上野国や武蔵国にも出陣し、駿河国(静岡県)や甲斐国(山梨県)にも足を運んだことが『新葉和歌集』や私家集である『李花集』の内容から判明している。
晩年については、新葉和歌集の選集がほぼ終わったと思われる1378年(天授4年)に大河原に一度戻った事が判明しているが、1381年(弘和元年/永徳元年)に吉野に戻って新葉和歌集を長慶天皇に奉覧して以後は、確たる記録が残されていない。
終焉場所については、1550年(天文19年)に作成された京都醍醐寺所蔵の「大草の宮の御哥」と題された古文書の記述から、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説が有力とされている(東京大学史料編纂所が醍醐寺文書から抜粋した「三宝院文書」)。一方、「南山巡狩録」や「南朝紹運録」では、1385年(元中2年/至徳2年)に遠江国井伊城で薨去したと記されている。また昭和15年に長野県旧長谷村常福寺にある宗良親王尊像の胎内から発見された文書から、1385年に大河原から諏訪に向かう途中の峠道で討ち死したとする入野谷長谷説がある。長谷村では、明治の中頃に十六弁菊花の紋章と宗良親王の法名である尊澄法親王の文字が刻まれた無縫塔が発見されており、胎内文書はかつてこの地にあった天台宗の古刹大徳王寺の住職尊仁が江戸時代に書き残したものされている。その他に浪合説(子の尹良親王終焉の地)、河内山田説、さらには越後や越中で薨去したとの諸説がある。柳原紀光の「続史愚抄」には、南朝紹運録や入野谷長谷説と同じ1385年(元中2年)8月に没したと記されており、花山院長親の「耕雲百首」にある「故信州大王」との記述から、1389年(元中6年/康応元年)以前に没したことがわかる。長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔は宗良の墓と伝えられており、静岡県の井伊谷宮も宗良親王を祀っており、墳墓が残されている。(Wikipediaより)


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歴史の散歩道 : comments(6) : - : しずか
井伊家の史跡めぐり(3)浜松・龍潭寺 その弐
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続いて、龍潭寺の墓地と庭園です。
 


井伊家歴代墓 元祖共保公より二十四代直政公までの墓地



 左から、直政、直政の母、父の墓


庭園







小堀遠州は、滋賀・長浜の出身で、「遠州流」の茶道を興し、二条城二の丸庭園などの作庭をしました。また、駿府城の作事奉行を井伊家・25代直孝とともに勤めたことが縁で、当寺の作庭を依頼したといわれています。

境内では、ツツジやアジサイに代わり、ガクアジサイがあちらこちらで咲き始めていました。











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