My Days
日本のあちこちを旅しています。

北条氏政・氏照の墓
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小田原駅から歩いて数分のところにある北条氏政・氏照の墓所です。









こういう案内があるとわかりやすいですね。







ここから一番近いお店に行ってみたのですが・・・

どこに置いてあるのかわかりませんでした〜(;O;)

帰りの時間も迫ってきたため、幸せの鈴には巡り会えず〜orz

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浜名湖ぶらり(3)大福寺
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続いて三ヶ日の大福寺


山門












当寺は、清和天皇の貞観17年(875)に名僧教待上人が鳳来山(扇山)に幡教寺を開創した。
200年を経て承元三年(1209)大中臣朝臣時定卿が所領250町歩を寄附し現在地に移し、土御門天皇から勅額を下賜されて大福寺と改称した。
その頃当時は塔頭30建造物20を有する大伽藍であった。(案内板より)







境内庭園

海抜40mの境内からは、景勝瀬戸が眺められ9月から4月まで咲く半歳桜や銀杏の大樹がある。 900坪の庭園は室町時代の築庭で浄土苑と称し元禄時代は茶祖山田宗徧(そうへん)が愛好した名園で、池は福助池という。(案内板より)



広い境内を奥に進むと、数々のお堂があります。










 
また、当寺は大福寺納豆でも有名です。

浜名納豆

大福寺伝製の浜名納豆は明(中国)の僧から伝来されたもので、日本の納豆の元祖である。足利7代将軍義勝・今川義元・豊臣秀吉・徳川家康以下歴代の将軍に献上し、御朱印の外に納豆除地を下付せられた。豊臣時代は唐納豆と言ったが、徳川中期から浜名納豆と言っている。(案内板より)



今年はもう売り切れでした(^_^;)


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歴史の散歩道 : comments(5) : trackbacks(0) : しずか
七里の渡し(宮の渡し公園)
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地下鉄名城線「伝馬町」から熱田神宮を左手に歩くこと10分

 



江戸時代、旧東海道桑名までの海路「七里の渡し」の船着き場として栄えたところです。



現在は、宮の渡し公園として整備され、「時の鐘」、「常夜燈」が再現されています。











向かい側にある丹羽家



住宅脇本陣格の旅籠であったそうです。





風情のある公園まで、夕暮れ時に気持ち良い散歩ができました。

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名古屋めぐり(5)清洲&清洲古城跡公園
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信長ゆかりの地・清洲を歩いてみました。 



 名鉄新清洲駅から五条川に架かる五条橋に出ると、江の幟が立っています。



 
 
清洲公園 清洲城天守閣の対岸に位置し、信長の像があります。 

 

 

若き日のの信長でしょうか。凛々しお姿ですね 



この銅像がある付近に本丸の中心部は、線路を挟んで北側に天守閣があったと推測されているそうです。 

 

清洲古城跡公園 清洲越の後、現在まで清洲城跡地として保存されています。 





 
 



 ここから赤い橋とお城が見えます。

 

お土産処を兼ねた休憩所もありますよ!
 
 



中には江のポスターが!


 
次は清洲城へ向かいます。

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井伊家の史跡めぐり(5)井伊谷城跡
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井伊谷宮から井伊谷城跡へ。

井伊城は井伊氏の居城だった場所で、井伊谷宮近くの城山の上にあります。

城山公園から坂道を7分ほど上るのですが、この坂道が結構キツイ(汗)




 
城山の頂上付近には御所丸跡や井の宮石稜が残っています。









南北朝時代、戦時には、三嶽城(井伊谷城から北東2.5kmにそびえる三岳山に築かれた城)を本城とする井伊氏・宗良親王は、北朝方と戦っていたといわれます。

井伊城はこの城山の南麓にあり、南麓には本丸・二の丸・三の丸に分かれ、井伊家の居城であったとされている。延元元年(1337)遠江介井伊道政が後醍醐天皇の皇子宗良親王をお迎えしてより、元中2年(1385)8月10日宗良親王この地で薨去し給うまで約50年、親王は京都と鎌倉の中間であるこの井伊城を本拠として、駿河、甲斐、信濃、越中、越後、上野の国々を転戦された。

平時にこの城山の御所の丸に居られ  

 夕暮れは湊もそことしらすげの 入海かけてかすむ松原 

 はるばると朝みつしおの港船 こぎ出るかたは猶かすみつつ 

の御歌が残されている。(説明版より)

城山公園として整備されているこの城跡には、テーブルやベンチも設置されていて、引佐周辺や浜松アクトタワーの展望を楽しむこともできます。





また、城山全体に桜の木が植えられているので、桜の季節には花見客で賑わうそうです。 FC2ブロブログランキング参加中!
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歴史の散歩道 : comments(4) : - : しずか
井伊家の史跡めぐり(4)井伊谷宮 宗良親王の墓
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 龍潭寺に隣接する井伊谷宮は、1872年(明治5年)井伊家によって建てられた神社で、南北朝の動乱期に、井伊家のもとに身を寄せ、北朝方と戦った後醍醐天皇の皇子の宗良親王を祀ってあります。本殿の背後に宗良親王の墓と伝えられる塚がありますが、宗良親王の晩年は不明な点が多く、終焉の地については諸説あります。

墓所は、立入禁止になっていて見ることはできません。



宗良親王に従った信濃国の知久監物源頼人が奉納した宝筐院塔があるそうです。



龍潭寺から、この墓地を通り過ぎて、井伊谷宮に通り抜けることができます。








慈母観音菩石





母親が子どもを抱いている姿に見えます。

宗良親王(むねよししんのう/むねながしんのう、1311年(応長元年) - 1385年9月14日(元中2年/至徳2年8月10日)? )は、南北朝時代・室町時代の皇族で後醍醐天皇の皇子で、信濃の宮や大草の宮・幸坂の宮(庇護者となった香坂氏に由来)と呼ばれた。母は二条為子。
歌道の家であった二条家出身の母から生まれたことにより、幼い頃から和歌に親しんでいた。妙法院に入り1325年(正中2年)妙法院門跡を継承。続いて1330年(元徳2年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。
父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗り、大和国吉野(奈良県)の南朝方として活躍をするようになる。1338年(暦応元年/延元3年)には、義良親王とともに北畠親房に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(福島県伊達郡霊山町)へ渡ろうとするが、座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族井伊道政のもとに身を寄せる。
1340年(暦応3年、興国元年)に足利方の高師泰・仁木義長らに攻められて井伊谷城が落城した後、越後国(新潟県)の寺泊(現、新潟県長岡市)や、越中国(富山県の放生津(現、富山県射水市)などに滞在した後、1344年(興国5年/康永3年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現、長野県大鹿村)に入った。宗良はこの地を文中二年(1373年)までの約三十年間にわたり拠点とし、「信濃宮」と呼ばれるようになる。その間に上野国や武蔵国にも出陣し、駿河国(静岡県)や甲斐国(山梨県)にも足を運んだことが『新葉和歌集』や私家集である『李花集』の内容から判明している。
晩年については、新葉和歌集の選集がほぼ終わったと思われる1378年(天授4年)に大河原に一度戻った事が判明しているが、1381年(弘和元年/永徳元年)に吉野に戻って新葉和歌集を長慶天皇に奉覧して以後は、確たる記録が残されていない。
終焉場所については、1550年(天文19年)に作成された京都醍醐寺所蔵の「大草の宮の御哥」と題された古文書の記述から、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説が有力とされている(東京大学史料編纂所が醍醐寺文書から抜粋した「三宝院文書」)。一方、「南山巡狩録」や「南朝紹運録」では、1385年(元中2年/至徳2年)に遠江国井伊城で薨去したと記されている。また昭和15年に長野県旧長谷村常福寺にある宗良親王尊像の胎内から発見された文書から、1385年に大河原から諏訪に向かう途中の峠道で討ち死したとする入野谷長谷説がある。長谷村では、明治の中頃に十六弁菊花の紋章と宗良親王の法名である尊澄法親王の文字が刻まれた無縫塔が発見されており、胎内文書はかつてこの地にあった天台宗の古刹大徳王寺の住職尊仁が江戸時代に書き残したものされている。その他に浪合説(子の尹良親王終焉の地)、河内山田説、さらには越後や越中で薨去したとの諸説がある。柳原紀光の「続史愚抄」には、南朝紹運録や入野谷長谷説と同じ1385年(元中2年)8月に没したと記されており、花山院長親の「耕雲百首」にある「故信州大王」との記述から、1389年(元中6年/康応元年)以前に没したことがわかる。長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔は宗良の墓と伝えられており、静岡県の井伊谷宮も宗良親王を祀っており、墳墓が残されている。(Wikipediaより)


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井伊家の史跡めぐり(3)浜松・龍潭寺 その弐
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続いて、龍潭寺の墓地と庭園です。
 


井伊家歴代墓 元祖共保公より二十四代直政公までの墓地



 左から、直政、直政の母、父の墓


庭園







小堀遠州は、滋賀・長浜の出身で、「遠州流」の茶道を興し、二条城二の丸庭園などの作庭をしました。また、駿府城の作事奉行を井伊家・25代直孝とともに勤めたことが縁で、当寺の作庭を依頼したといわれています。

境内では、ツツジやアジサイに代わり、ガクアジサイがあちらこちらで咲き始めていました。











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井伊家の史跡めぐり(2)浜松・龍潭寺 その壱
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井伊家、後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天正5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。 井伊家は藤原鎌足の後裔で、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。
 
保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました。

室町時代は今川氏に仕え、桶狭間の戦いで戦死をした井伊家22代・直盛の戒名「龍潭寺殿天運道鑑大居士」をとり龍潭寺と寺号を変えました。
 
戦国時代になると、24代・直政が浜松城主・徳川家康に仕え、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようなり、やがて徳川四天王の筆頭となり、彦根に出世。 幕末には、36代・大老井伊直弼が開国の偉業を成し遂げました。 こうした元祖・井伊共保公より40代に到る祖霊を祀る井伊家の菩提寺が龍潭寺です。

境内には江戸時代に建立された県指定文化財の本堂、開山堂、総門、庫裏、井伊家霊屋などの建物が立ち並び、国指定名勝の小堀遠州作「龍潭寺庭園」は、石組みを配した築山と心字池からなる池泉鑑賞式庭園となっています。
(龍潭寺縁起より)



 
山門


 
井伊家発祥の地の石碑




 

庫裡   

   

瓦の井の字

         

開山堂



左甚五郎の龍の彫刻



井伊家お籠



井伊家霊屋
 


元祖・共保公、22代・直盛公、24代・直政公の木像が安置されています。



元祖・井伊共保公像



22代・井伊直盛公像



24代井伊・直政公像



井伊家24代。永禄4年2月9日井伊領内祝田で誕生。15歳の時浜松城で徳川家康公に仕、関ケ原の戦いでの武勲により、彦根へ。彦根藩江戸時代三百年の基を築き、42歳、慶長7年2月1日逝去。龍潭寺に葬れました。
 
次は井伊家歴代墓地と庭園です。
 
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井伊家の史跡めぐり(1)井伊氏祖 共保出生の井戸
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今日は天気が良かったので、地元の史跡めぐりに出かけて来ました。

奥浜名湖の北にある浜松市北区引佐町井伊谷。
井伊谷は、かつて井伊家が治めた土地です。
井伊といえば、家康幕下の名将・直政や幕末の大老・直弼を輩出した家として知られています。

今日最初に訪れたのは、遠州の名刹・龍潭寺門前の田んぼの一角にあるのが「共保出生の井戸」です。

白壁の塀に囲まれているので、車に乗っていてもすぐにわかります。



共保公とは、平安時代から戦国時代までの六百年にわたり当地方を治めた井伊氏の元祖です。共保は、藤原冬嗣6世孫で、遠江国主・藤原共資の子に当たりますが、この地には、次のような伝説が残されています。

井伊氏祖 共保公出生の井

 この井戸は井伊家の始祖井伊共保公出生の井戸として往古から伝承されています。一條天皇の寛弘年間藤原鎌足十二代の子孫 備中守共資公が遠江介として村櫛へ下向、元旦 領内平安祈願のため渭伊神社へ参拝されました。たまたま神域の当井戸の傍に嬰児を見付け抱上げつくづく見れば、俊秀麗顔、常人にあらずまことに神授の神童なることを覚り己が子と致しました。後年共資公が自身の一女と婚せしめ、郷名にちなみ名を井伊共保と称し当地方の宰主となり家紋をこの聖井を型取り、井桁に橘を以ってし、名門井伊氏の基を開いたと謂われます。
 又、史説として、天日槍命(あめのひほこのみこと)三十二代三宅好用、醍醐天皇の延喜年間奈良より荘司として着任、この井戸の傍に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資公に嫁し共保を生誕したとも伝えられます。三宅の家紋は橘であります。(引佐町教育委員会)







碑文は、第39代当主・井伊直愛氏(井伊直弼の曾孫)の撰述。



共保公出生の井戸



周りはこんなのどかな風景です




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小江戸・川越の旅(4)喜多院 その弐
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喜多院の境内にある五百羅漢は、天明2年から

約50年間をかけて作られたものです。







十大弟子、十六羅漢を含め533尊者のほか中央高座の

大仏に釈迦如来、脇侍の文殊普賢菩薩の両菩薩、

左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせて全部で

538体あります。










一体一体表情が異なる石仏を丁寧に見ていると

時の経つのを忘れてしまいます。



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